今だに福智山で愛される光秀                                                    なんと改ざん防止用紙に描かれる 福智山城

 

1467年から11年間に亘り応仁の乱が起こり、権威と秩序が崩壊し戦国時代に入った

先に戦国時代が始まったいきさつを多少述べたいと思います。
1467年から11年間に亘り将軍の後継者争いや山名家と細川家の
対立や各地の守護大名の後継者争いなどいろいろな対立構造があった。
そういった争いで京都を焼け野原にした応仁の乱により、室町幕府の統治体制
である中央の管領制、地方の守護職制が崩壊、足利将軍家の権威は
失墜し、地方では実力ある守護代が、守護職に取って変わったり、豪族や国人
らが中央政府から独立して土地の領有権を主張し、独自の自治を始めるのです。

結局、室町幕府の体制下では、三管領、四職、守護職と言われた名門の家柄
でも実力がなければ没落し、身分の低い者でも実力さえあれば成り上がる、
下剋上の世の中になれば当然、隣接する領主間に争いが起こり、
戦によってこれを解決しようと勝利した方が領土を支配していくのです。
このように大きな領土と軍事力、経済力を持った武将を戦国大名と
呼ばれるように互いに覇を競うようになっていったのです。
そして戦国時代が100年以上続き、権威とか秩序が崩壊していったのです。

 

光秀の幼少期から青年期まで

さて、光秀の出自を調べて見れば1528年、美濃国、現在の岐阜県南部の
名門土岐氏の一族として生まれたようです。明智家は、土岐氏の分家であって
父は明智光綱、母は、お牧の方です。
光秀は幼少期に父を病で亡くしたと言われていて、父の弟である光安が
育てたようです。
明智家は、光秀が継ぐ事を幼少のころから自覚しており
子供の頃から、学問に対する意欲を見せ青年期に京都の天龍寺で学問や武術を学び武家として技量を磨くことと、規律に従って誠実に
生きるように徹底して教育されたようです。
そして美濃の大名である斎藤道三は、光秀の真っすぐで才覚あふれる人柄を
気に入り、徹底した武士としての教育を伝授することになり、
実際の戦での戦い方など、戦国時代を生き延びるための知恵を授け
たと思われます。
この斎藤道三の妻は、小見の方で、光秀の父とは兄妹の関係でした。
そして道三には娘がいて帰蝶と言い、実は織田信長に嫁いだ濃姫のこと
なのです。光秀とは、従妹の関係になるのです。

 

明智家の復興と信長の家臣として活躍

1556年 道三は、子供の義龍と争いを起こすことになります。
この時、光秀は道三側についていたことから明智の屋敷を義龍に
攻撃され光秀一家は逃げ延びて、明智一族の復興を願って各地を放浪する
ことになるのです。今まで身に付けた鉄砲術によって越前の国 朝倉義景に
見出されて、召し抱えられることになるのです。
その当時の足利義昭は、側近らと供に京都から越前の朝倉義景を頼って来たとき
義昭は、義景の家臣であった光秀を知ることになるのです。
足利義昭は朝倉義景がなかなか上洛をしようとしないので、光秀を仲介役に
尾張の織田信長に上洛するよう要請をします。
こうして、やっと信長を従えて上洛することとなった義昭は、1568年に第15代将軍
となるのです。
光秀は、この功績により、義昭と信長両方の家臣となります。
1571年、織田信長の命により比叡山延暦寺との戦いを任され
用意周到に作戦を立て、比叡山の焼き討ちを実行するのです。
その後信長は光秀に後の処理を任せ、織田軍の家臣で分配し、以前から門前町
として栄えた坂本に坂本城を築城することを信長に許されたのです。
ここで特筆すべき事は、光秀は信長の命に反して比叡山延暦寺の高僧や文化財を
保護した事です。そして保護した事で坂本の人々から慕われ、
坂本城跡には光秀の銅像と石碑が残されています。
1575年に朝延から惟任(これとう)を賜り日向守の官職に任命され惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)
となります。
この年信長から丹波攻めを命ぜられ丹波の攻略に取りかかったのである。

戦国時代以前の丹波国

その前に戦国時代以前の丹波国は、京都のすぐ隣で北西部に位置して
いましたので足利将軍家の直臣の国人、丹波の守護大名を支える国人、また
独立色の強い国人らが、割拠した土地だったので、重要な土地だけに、
戦乱が絶えない地域だったのです。
それに平安時代から寺社などの荘園が数多く作られ既得権力が弱まっていた
としても古い制度が強く残っていて、戦国大名が育たず、荘園と地方豪族の武力衝突が、
相次ぎ起こり、荒廃していたのです。

丹波攻め

さて、光秀の丹波攻めに戻りますが、最初光秀は目標を氷上郡の萩野(赤井)直正に
絞っていました。周辺の豪族を素早く味方につけ、萩野直正を包囲します。
しかし八上城の波多野秀治が突如反旗を翻し、直正と連携して光秀を挟み撃ち
にした結果、命からがら撤退し、立直すことを余儀なくされたのです。

丹波平定

その後、丹波攻めを再開した光秀は、波多野秀治を標的にして
周辺の城を確実に押さえ、丹波の豪族たちに気を遣い
取り込みながら周到に準備を進めました。
1577年には亀山城を築城し、丹波での本拠地に翌年萩野(赤井)直正が病死
すると、その翌年には徹底的に八上城を包囲し和議を勧めたが、波多野秀治は、
応じず、長期戦となりました。そこで八上城と黒井城を分断するために金山城を築城したのです。
毛利氏や赤井氏の支援があったが、兵糧攻めにより
1579年に落城し、波多野氏は、とうとう滅亡してしまいました。
その後鬼ヶ島、黒井城、横山城を制圧し、丹波平定を成しとげたのです。

坂本城以外は丹波平定に関わる城

城を設計することを「縄張り」といい光秀は縄張りの名主であり
柔軟な発想を持っていた。

坂本城は1571年  信長の家臣で初めて城持ちの武将になったのが光秀であり、
初めての築城が坂本城であった。
1571年琵琶湖の岸辺に平城である坂本城の築城に着手。
浅井・朝倉軍を攻撃するための布石でもあった。

亀山城は1578年丹波攻略に従事中であった光秀は亀岡盆地の中心であった、
亀山に築城し、丹波の他の城と異なり総構えが
掘られており、一国の拠点となる城としてふさわしい威容を誇っていた。

金山城は1579年 丹波攻めの過程で光秀が現在の篠山市と丹波市
の中間に位置する標高540mの鐘ヶ坂峠の山頂部に築いた山城
目的は八上城と黒井城の分断にあり、双方が見渡せる位置に築城されている。

周山城は1581年(天正7年)若狭から京都への交通の要衝であり、東丹波統治の拠点
として光秀が築城して城主には光忠が入った。

福智山城は1579年丹波平定に成功した光秀が丹波の拠点と
して新たに城を築いたのが始まりとされています。
元々は横山城があった場所で丹波平定後  福智山城として
改築したものです。
光秀は福智山城を丹波の拠点として、娘婿の明智秀光を城主とした。
縄張りこそは光秀が引いたのですが完成まで至らず。
その後城主が、次々と変わり、改修され関ケ原の戦いで功をなした有馬豊が入域してから完成した。

丹波攻略の軍事的拠点は、やはり亀山城であったが、
平定後は、横山城の改築をして福智山城を中心に
領地の善政を行うこと その福智山城と城下町が、光秀の本領を発揮する所ではなかったか?

光秀の人柄と福智山城

明智光秀の人柄が石垣から分かる
福智山城天守台の石垣には、一見乱雑に見える積み方で「野面積み(のづらずみ)」
と呼ばれ自然石を巧みに組み合わせたことを言います。400年以上の歳月に耐えてきたものです。
そして石垣には、五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の他、石仏や石臼などの
転用石が多く使われている。
この転用石は、信長に関わる城に共通するもので、そこの土地の旧勢力の
象徴である寺院を破壊し、石垣に組み込むことで支配を示そうと
考えられているのです。
しかし光秀は石材を集める一方でその補償として別の石を配ったとされ、
新しい統治者に対して領民の抵抗を和らげる配慮を忘れなかったのではないか?

城の名前に明智の一字をとって「福智山城」と言い、領民と築いたお城

戦国史の専門家で小和田哲男名誉教授によれば
「築城は大プロジェクトで近くに石切り場がなければ石材がある寺で不足を補う必要があった」
と指摘、目立つ場所に置いた理由は、「石塔類に何か意味をもたせたのでは」と語る
また光秀が、福智山城の大改修を行った際、領民らが、石材・木材を城へ運ぶのに
「ドッコイセードッコイセー」と唄ったのが起源とされ、福知山音頭の囃子ことばが
今もひびく。
今では、城下での商工業が発展し、明治初めに城は破却されたが、
昭和末に市民らの寄付で天守を再建。地税の免除、築堤による治水など
善政も伝わり、市内の御霊神社は300年以上、光秀を神としてまつり、
この名君の誉こそ、「堅固な城」の効用かもしれない

改ざん防止用紙に描かれた福知山城 築城した光秀は今だに地域で慕われている

最初は光秀の話をしてきましたが、
実は、現在ブームになっているからこそ長い話をしたのです。
それは、福智山市民が、いつも印鑑証明書や住民票など、
全ての証明書を市役所で発行するために必要な用紙が、あるのです。
それには、偽造したり、改ざんしたり、コピーしたりして、
簡単に原物を再現されては困るわけですから、
幾重にも偽造防止や、改ざん防止や、コピー防止をした用紙が必要なのです。
そして実際に証明書用紙としてまん中に明智家の家紋が配置され
バックには英文字の地紋が並べてあります。
そして別の所に2ヶ所のマイクロ文字を入れています。
そして目立たないように市章の透かしを少し上に配置しているのです。

話しは戻りますが、やはり、用紙の下から三分の一の所まで
福智山の城を薄く配置していることから、
今だに、光秀は市民に慕われていること、そしてこの用紙が
常に使われる事でさらに市民の心の中に生きつづけること、
結局市民に愛されるシンボルが必要であり、
それを偽造防止・改ざん防止・コピー防止用紙として形にすることが大事なのです。
また、光秀はこの時点で少しは、歴史上で見直されていくのか?
今からの世論の動向を注視したいものです。

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21.02.09

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